【温泉雑感 -5- 】 『温泉はなぜ体にいいのか』への指摘 (松田忠徳著/平凡社刊) 

温泉教授で知られる松田忠徳氏の近著である。これまで旅行雑誌に連載していた記事に、温泉の抗酸化作用についての実証記事を70ページほど書き加えたものらしいが、この内容が曲者である。温泉評論家とか旅行作家、最近はやりの温泉ソムリエの肩書で書かれたものなら読み流せるが、いまや氏の肩書は医学博士である。

本の帯には「科学的に解明」「化学的に本物でなければならない」「温泉の本質は還元力にある」とある。どうでもいい話なのかもしれないが、そこまで書かれてしまうと看過することもまた難しく思えてくる。何もわからない人が本書の内容を盲目的に受け入れても困るので、誤解防止を目的に問題点を端的に指摘しておく。

■唾液の酸化還元電位について(p16p28)

著者は十津川温泉、寿都温泉などで湯治前後の唾液の酸化還元電位を測定した。その結果、湯治後の唾液の酸化還元電位は相応に下がったので、温泉による改善効果が認められたと主張している。

かつて、我々も唾液の酸化還元電位についてはさんざん取り組んだ経験があるから言えるのだが、温泉に入らなくても時間や日にちが違えば、本書に記載されている程度の差は普通に出る。これは使用する測定器の精度や測定者によるバラつきの話をしているのではない。何かを食べたり飲んだりした前後、運動をした前後、その時の精神状態など、唾液の酸化還元電位やpHは、さまざまな要因で日々変動している。酸化還元電位の見かけ上の数値の差だけで何の効果であるかを特定すること自体が困難であり、それだけをもって体内の状態や抗酸化力の評価ができるほど単純な話ではない。その理由を以下、列挙する。

1. まず著者が引用している唾液の酸化還元電位の評価法(著者が考案したものではない)自体に根本的な欠陥がある。それは酸化還元電位のみしか見ておらず、pHの観点が欠落していることである。酸化還元電位はpHの関数でもあり、pHが変われば酸化還元電位が持つ意味も変わる。測定対象が唾液であろうと何であろうと、酸化還元電位の値のみで良し悪しを評価することは不適切である。

2. 唾液のpHは分泌量によって変動する。たとえば、興奮をしている時、楽しくて話がはずんだ時にツバが飛び出すのは分泌量が増えているからであり、その時のpHは上昇傾向にある。唾液に含まれる炭酸水素イオン(HCO3-)が、分泌量に応じて増えるからである。逆に、ストレスや緊張を感じている時の分泌量は減少傾向となる。唾液の酸化還元電位やpHの変化のスパンはさほど広くはないが、それだけに、pHのわずかな変動は酸化還元電位が持つ意味に大きな影響を与える。よって、pHを無視することはできない。

3.著者は上記について理解していないためか、測定データをそのまま羅列し、pHの影響を排除するデータ処理を行うこともなく、ただ単純に、酸化還元電位の平均値を求めて「前後で差が認められたので効果あり」としている。だが、一つ一つ意味が異なる値を平均値化することは、「1ドルと1ユーロと1円を足して3で割ったら1だった」と言っているに等しく、何の意味も持たない。

ここで上記3点の傍証として、運動時の酸化還元状態と抗酸化物質との関連について言及した『運動時の唾液酸化還元電位の変化』(塩田ら,2010)と題する論文を取り上げる。
それによると、運動前と比べて、運動後の唾液の酸化還元電位は有意に低下した。データの統計処理を行ったところ、酸化還元電位とpHとの相関関係は確認されたが、酸化還元電位と抗酸化物質との相関関係については明確な確認ができなかった。このことから、酸化還元電位の低下はpHの変化が大きく関係している可能性を指摘している。

酸化還元電位の変化=酸化還元状態の変化とは限らないということである。

温泉の抗酸化力について(p28p51)

これは巷間よく誤解されている点だが、活性酸素が「体内で生成されている」と断言するのは正確ではない。現在行われている活性酸素の研究は、体内で生成されていることは「ほぼ間違いないであろう」という前提で行われているに過ぎず、2017年現在、活性酸素が体内で生成されている事実は未だ直接的に確認されていない。よって、「体内で生成されているであろう」とするのが正しい。

このことから、まともな研究者や大学が発表するリリースでは決して断定はしない。「~とされる」とか「推定される」という奥歯に物が挟まった言い方をする。些細なことかもしれないが、これは活性酸素を語る上での基本認識である。

本書では、p42から始まる活性酸素の章の1行目ほか、各所で活性酸素が「産生される」と断定されている。本書を読み進める上で、著者がこのような認識でいることは留意しておく必要があろう。 

その上で、著者は十津川温泉、寿都温泉、高湯温泉などで湯治前後のd-ROM test値 (酸化ストレス)BAP test(抗酸化力)を調べ、いずれも有意な差が見られたので温泉入浴による効果があったとしている。正しい測定手順が保障されていたのであれば数値は正確であり、結果は事実なのであろう。しかし、それはあくまでもビフォアー、アフターでの話に過ぎない。 

たとえば、酸化ストレスは、日常的なストレスや遺伝、疾患など内因的な要素が大きく影響する。抗酸化力は、日常の食事の質など外因的な要素が大きく影響する。また、温泉が関与すると期待感が高まり心理的な側面に大きく作用するので、プラセボの可能性も高くなる。湯治前と湯治後で差が出たからといって、それが温泉入浴による効果であるとは限らないのだ。そもそもコントロールデータが存在しない。著者は「有意」というが、それならば対象群との比較による差をもって「有意」とすべきだろう。実験デザインに根本的な問題がある中で、湯治前後のデータに差が見られたからといって、温泉入浴により抗酸化力が高まった、酸化ストレスが軽減したという根拠にはならないのである。 

だが、著者は饒舌だ。先のd-ROM test値の結果から、「高湯温泉では活性酸素が20%も減少した」というが、d-ROM testはヒドロペルオキシド(ROOH)を指標として、in vitro”(試験管内)で再現された濃度を開発者独自の単位で示す簡易的なパックテストに過ぎず、in vivo”(生体内)における活性酸素量を測定するものではない。さらに、この結果から野菜を摂取するよりも温泉に入浴する方が抗酸化力を得られるとし、野菜嫌いの子供たちや若者たちは温泉を楽しみながら野菜不足を補ってもらいたいと言うが、それは飛躍しすぎだろう。 

抗酸化作用を持つ温泉水があるのは事実だが、すべての温泉がそうなのではない。著者が言う「皮膚から温泉の抗酸化物質が吸収されている」、「毛穴から浸透した温泉の成分は血液やリンパ液に混じり、全身の細胞に運ばれる」とは、具体的にどのような成分を指しているのか。もっともらしく書かれても、ただ困惑するしかない。科学はそれほど饒舌ではない。 

皮膚の酸化還元電位について(p28p51)

著者は俵山温泉での湯治前後の皮膚の酸化還元電位とpHを測定し、「湯治後の肌の還元力が顕著に高まった」と主張している。確かに入浴前後で比較すれば、還元性の高い温泉に入浴するほど皮膚の酸化還元電位は顕著に低下する。しかし、それは入浴直後に得られるデータである。皮膚が持つ調整作用により数時間もすれば元に戻るのだ。何らかの影響により、下がりっぱなし(上がりっぱなし)になることはない。著者自身、p55で「健康な皮膚であれば普通、23時間で弱酸性に戻る」と皮膚のpHについて触れている。これは酸化還元電位も同じである。 

「湯治後に皮膚のpHも減少した」(pH5.2→4.7)とも主張している(ちなみに、俵山温泉のホームページではpH5.05→5.39と上がったことになっている)。それが正確だとすると、先の「23時間で戻る」という説明と矛盾する。これはどうしたことなのか。よく読むと、その理由として「アルカリ性の源泉に触れることで皮膚のアルカリ中和機能が働き~」と書いている。そうだとすれば、湯治後というスパンの話ではなく、入浴後、「23時間で戻る」という皮膚の調整作用中に測定したこと意味しているのではないか。当然、酸化還元電位もほぼ同時に測定しているはずなので、同じことが言える。もし、測定日に入浴は一切していないというのであれば、測定の方法や手順、データの信ぴょう性についての議論が必要になるだろう。皮膚の酸化還元電位の測定で信頼性のあるデータを得るのは、けっこう大変な作業なのだ。
いずれにしても、皮膚の酸化還元電位やpHが入浴による影響を受けて変動するのはせいぜい数時間程度のことなので、それをある一定期間の効果と解釈することはできない。 

このほか、「真冬の方が温泉の還元力が強い」(p38)、「-100mV以下の還元力がある温泉が散見されるのは心強い」(p58)、「俵山温泉はわが国屈指の還元力」(p59)、「含有成分より、むしろ溶媒、温泉水そのものの活性である」(p210)等、著者の酸化還元電位に対する認識には怪しい点、恣意的な点が多々見られる。 

本書に限ったわけではないが、著者の言説で注意する必要があることは、至極もっともな意見の中に誤謬がそこかしこに潜んでいることだ。データの恣意的な解釈や、こういう結果であって欲しいといった希望的観測が混然一体となり、カオス的な状況を呈している。著者の持論なのかもしれないが、これを科学と呼ぶには程遠い。 

最後に、もっとも気になった点を指摘しておきたい。p40冒頭の「科学は万能ではない。森羅万象の中に真の科学は存在する」という一節だ。森羅万象を「解明」するのが科学という手法であるが、「存在」するとはどういう意味なのか。その意味不明な一節からオカルトの匂いが感じ取れると言うのは、少々穿ち過ぎだろうか。