昨年、ある知人から「書いてある内容が何かおかしい。今度、ソレを送るので一度読んでチェックしてほしい」と電話で告げられた。それから数カ月が経過しても知人から“ソレ”が送られてくることはなかったが、すっかり忘れかけていたある日、“ソレ”がデジタルブック形式によりネットで公開されているのを見つけた。“ソレ”とは、福島県にある高湯温泉が発行した「高湯温泉録~ウワサの温泉に初めて科学のメスが入った!」と題する小冊子である。
科学のメスとは、一体どんなメスなのか?
表紙を開いてまず目に飛び込んでくるのが、「温泉は、含有成分だけで体に効くのか?」という意味ありげなタイトルだ。さっそく嫌な予感がする。案の定、最初の本文#1の章にはこう書いてある。「この検証に迫るキーワードは、温泉に含まれる物質の“溶質”ではなく“溶媒”、つまりそれらの成分を溶かす水そのものにある」。
やはり出たか。
これは水をめぐる偽科学の議論では頻出の、というより怪しげな業者や似非研究者によって使い古されてきた常套句である。ちょっと前には『水からの伝言』という本が社会的にさんざん批判を浴びて話題になったが、今回の話も根はまったく同じである。高校化学レベルのリテラシーがあれば、こんな恥ずかしい内容を書くはずもない。それがいきなり、最初の見開きで堂々と展開されているのだから、たまげるほかはない。
さらに読み進めると、#2では「含有成分では申し分ない」と溶存成分の話、#3の酸化還元電位の話ではお決まりの「数値がマイナス云々」の話 (この話自体、正確ではない) が続く。訳知りの人が読めばこの時点で、これ以上先を読まずともお里が知れたようなもので、冊子の科学的レベルとストーリーは明快に予測できるはずだ。
その終着点は#5の「成分や溶質が濃厚であっても、水そのもの、つまり溶媒に力がなければ効かない薬と同じ」である。その「溶媒に力」の根拠は高い還元力、具体的に言えば「マイナス100mV以下」を示す(繰り返すが、これ自体が誤謬である)高湯温泉水なのだそうだが、これは酸化還元反応というものをまったく理解していないことを自白しているようなものだ。溶質(成分)なくして酸化還元反応は起こらない。溶媒(水)に力があるのは、溶質がある(成分が溶けている)からなのだ。たんなる水に特別な力など存在しない。
「酸化還元電位が低いから特別な水」という、水の偽科学で使い古された与太話としてなら聞き流せても、冊子のタイトルに「科学のメス」と公言され、温泉地として誘客に積極的に活用され、そのような誤認識を事実のように広めているのであれば、これは「偽科学」と指弾するよりほかはない。この調査と冊子作成には福島市、温泉教授で知られる松田忠徳氏、東京女子医科大学などが名を連ねているが、いったいどういう見識なのか。「成分ではなく、水そのものに力がある」とは、厚顔無恥にもほどがある。携わった関係者は高校化学から出直してほしい。
ちなみに#5の続きには「活性力のある温泉は、微量な成分でも皮膚から浸透し、血管を通じて全身の細胞に運ばれる」という記述もあるが、これも科学的にみて明らかに不用意な言説だ。これに関わらず温泉一般の話で、「入浴すると成分が皮膚に浸透」という言説が安易に語られているが、これについては前提条件を整えた上での、十分な議論が必要だ。これについても、いずれ論じてみたい。