温泉と観光の principle を追及する純民間の調査研究・コンサルティング会社です
2015年11月30日
かつて、「嘘も誠心誠意つき通せば事実になる」と言った政治家がいた。いま、これと似た事態が温泉の世界で進行している。外部からの指摘に耳を傾けることもなく、ただ盲目的に自分たちの主張が正しいと信じ込み、官民一体で誤った情報の発信が続けられているのだ。
2012年から13年にかけて、実際には高濃度の溶存水素が存在していないにもかかわらず、山中温泉(石川県加賀市)で「水素日本一」(0.6 ppmと主張)、俵山温泉(山口県 長門市)で「世界最高水準」(主張しているのは0.4 ppmで、山中温泉よりも低いのだが…)という大仰なキャッチフレーズにより、マスコミを通じて「高濃度の溶存水素を含む温泉」として発表された。両温泉地の温泉水の性質、水素の実際、湧出のバックグラウンドである地質の背景を理解していれば、このような誤認が発生することは到底、考えられない。我々は、両温泉地について半年以上にわたり調査を行い、その結果を論文として学術誌にも発表し、それぞれによる主張は誤りであることを指摘した(その詳細は
こちら
)。
にもかかわらず、最初の指摘から1年半以上が経過しても事態が改善される気配はなく、未だ尾を引き続けている。2004年の温泉騒動のように社会的な問題にもなっていないため、指摘されても「放っておけば、いずれ静まる」程度にしか思っていないのだろう。世の中、言ったもの勝ちではない。自主的な対応を期待してしばらく静観していたが、事態は悪化するばかりだ。いま一度、本件についてさらに踏み込んだ問題提起の必要があるようだ。
それにしても、なぜ著名な温泉地においてこのようなお粗末な打ち上げ花火がいとも簡単に上がってしまったのか。これまでにも「温泉水に溶存水素」という情報は散発的に聞かれたが、いずれも誤認であり、話題自体にも影響力がないため話はすぐに埋没した。
しかし今回は様相が異なる。山中温泉の場合では、地元有力紙・北國新聞により20報以上も記事化されているのだ。俵山温泉では長門市長が同席した記者会見まで開かれていたほか、その後の情報発信では長門市や山口県の観光部門と官民一体となり、現在でも続いている。いずれの場合も大学教授の肩書を持つ著名人(金沢大学名誉教授・廣瀬氏と札幌国際大学教授・松田氏)が深く関与していたこともあり、マスコミ関係者を含め、背景知識を持ち合わせていない素人目には疑うべき点などあるはずもない、ということなのだろう。
我々の指摘により、最初に具体的な対応を取ったのは山中温泉観光協会だった。観光協会サイドのホームページから当該情報は直ちに削除されるとともに、要請により我々は現地に赴き、加賀市役所、観光協会関係者らとともに実際に泉源等で調査を行い、溶存水素が存在していないことを直に確認して頂いた。
百聞は一見にしかず、これで一件落着かと思われたが、事はそう単純ではなかった。水素の発表を主導していたのは観光協会ではなく商工会であり、地域内で多様な主体の思惑が入り乱れているため足並みが揃わないのだ。つい先日(2015年11月)も山中温泉観光協会長から近況報告の電話を頂戴したが、飲泉場に設置された「世界に自慢の」と題された溶存水素をアピールする看板は未だ撤去されずに残っているという(その後看板は撤去された)。また、一部旅館のホームページ上では、相変わらず水素が豊富であるという宣伝文句が掲載されている。
一方、俵山温泉サイドにおける事態は、いっそう深刻だ。
我々は俵山温泉合名会社に対して計4回(メール2回、書留郵便2回)にわたり資料を添えて、事実関係の指摘や問い合わせを行ったが、結局のところ応答は一切なかった。仕方がないのでレベルを一段上げ、長門市観光課に対して「市のホームページ等で公然と告知を行っているのであれば、公的機関の立場として説明責任があるのではないか」と書留を送付してみた。こちらもしばらく応答のない状態が続いていたが、1か月半以上が経過したある日、ポストに長門市観光課からの返信が届いていた。2015年4月初旬である。その要旨は次の通りである。
「本市では科学的立証を踏まえ、俵山温泉の温泉力の根拠として活用している。貴社から指摘は受けたが、温泉学に精通している松田教授の発表を信用し、今後の方針に変更はない」。書面には公印が押されているので、市の公文書と見做してよい。なぜ、長門市は返答までに長い時間を費やしたのか。文末にお詫びの一文があったことから、何らかの理由で意図的に遅らせていたものと思われる。
実はその間、俵山温泉サイドでは一つの動きがあった。ガス関連の某企業に、溶存水素の測定を依頼していたのだ。
我々は測定を実施した某企業の担当者に、その結果について確認したところ次の回答を得た。
1.ポーラログラフ式溶存水素計で測定したが、溶存水素は検出されなかった
2.そこでガスクロにより調べたてみたところ3 ppmの水素が検出された
3 ppmとは極めて微量である。ここでいう3 ppmとは溶存水素濃度ではなく、体積濃度(Volume)のことである。つまり、温泉水に溶存していた物質を気体として追い出したところ、0.000003リットルの体積に相当する水素ガスが検出されたという意味である。正確な測定方法や諸条件は不明だが、これを溶存水素濃度に換算すると1 ppbどころか、0.0以下のppbオーダーになるはずで、限りなく無に等しいレベルである。それを「ある」と言い張ることは、お金に例えれば、無銭飲食を追及された時に1円どころか、銭にも満たない厘の単位で「金なら持っている」と強弁することと同じ話だ。独善的解釈にも程がある。測定に当たった担当者も、「その値から溶存水素濃度に換算することは無理というのが我々の結論」と明言している。そもそも、ポーラロ式水素計で検知されないレベルで、溶存水素が存在すると言えるのか。俵山温泉サイドがホームページ等で主張する「高濃度の溶存水素(0.4 ppm)」は夢のまた夢、まったくの幻なのである。
では、「それでも温泉水から3ppmの水素が出てきたではないか」と開き直れるほど特異な結果なのかといえば、まったくそうではない。実のところ温泉水に水素が含まれているか、否かに的を絞った研究はこれまで皆無に等しいが、しかるべき論文や文献を丹念に当たれば、少ないながらも測定データを見出すことができる。
不用意な誤解を招くと困るので温泉名は敢えて伏せるが、数ppmから50 ppm前後(溶存水素の値ではない)の観測はザラであり、100 ppm超の報告も散見される。我々が普段行っている調査業務の過程でも溶存水素として20〜30 ppb程度、またはそれ以下のレベルであれば、数は多くないが、観測した実績はいくつかある。現在、高濃度の溶存水素を含む温泉では唯一である白馬八方温泉では、過去に10万ppm超の観測記録もある(ただし、値のバックグウンドには測定方法や手順、酸素補正の有無など条件に違いが内包されているため一概に比較できない。数字の解釈には注意が必要だ)。
ちなみに、水素は人間の体内でも生成されている。例えば呼気には一般的に数ppmから数十 ppm、多い人(または時)では100 ppm超の水素が含まれている。放屁に至ってはさらに高濃度である。俵山温泉水から出てきた3 ppmは、人間の呼気や放屁から排出さる水素濃度よりもはるかに低いのだ。そのようなレベルで世界最高水準と冠が付けられるのであれば、日本の温泉のほとんどがそれに該当するはずだ。日本国民すべてが水素人間になってしまう。
俵山温泉サイドが、実際に某企業からどのような報告を受け、どのように理解しているのかは不明である。長門市から返答があった時期的なタイミングを考えると、この報告を受けてではないかと思われることや、俵山温泉のホームページでは未だ「高濃度水素水の湯治場」と謳い、具体的な測定値とともに溶存水素が「濃厚」であると主張を続けていることから、この僅かな3 ppmの報告を藁にもすがる思いで「根拠」として据えている可能性もある。
しかし、問われるのは気相での値ではない。液相における、つまり溶存水素としての値なのである。そして何より、そもそもの「高濃度水素泉(0.4 ppm)」の発表は自らの不明に基づく「誤認」であったことを素直に認めるべきではないのか。
長門市からの返信(公文書)に書かれた「科学的立証を踏まえて」とは、いったいどのような立証なのか。何をどう踏まえれば、市長を交えて「世界最高水準」と記者会見まで開ける科学的根拠を得られるというのか。この点について明確な説明責任があるにもかかわらず、ただ「水素はある」「信じている」という姿勢で済ませようとするのであれば行政として失格であり、「科学的」という言葉を使う資格もない。
また、長門市が我々に返信するにあたり、某企業による調査結果を正しく理解した上であったとすれば、これは重大な虚偽問題となろう。そうでなかったとしても、市が公式見解として回答している以上、不作為の責は免れない。
結局のところ、我々の指摘や某企業の結果を得ながらも、未だ「高濃度の溶存水素」の看板を県や市の観光部門を含め、官民一体で掲げ続けている。その情報はインターネット上でも増殖を続けており、それが社会的弊害ともなっている。
先日、ある通販番組の制作会社から問い合わせがあった。ある水素水業者が製品を持ち込んできたのはよいが、その商品説明の中に「天然水素水の西の横綱は俵山温泉」と書かれていたそうだ。番組で間違った情報を流すわけにはいかないので、その信憑性を確認したいとの問い合わせだったが、我々にコンタクトをする前に、その担当者は様々な機関に問い合わせ、情報を調べた上で、「それは間違いである」との結論に達していたようだ。
だが、このようなリテラシーを持つ人は極めて少ない。ネットで検索してみればわかるが、流通している情報をただ鵜呑みにして転載しただけの水素水業者や個人の水素関連のブログが星の数ほどあふれている。真偽は関係ない。情報は広がれば広がるほど、増えれば増えるほど「事実のように」定着していくのである。
もはやこの問題は温泉水に水素がある、ない、という次元ではなくなっている。一つの社会問題として捉え、悪貨に良貨が駆逐されぬよう粘り強く訴え続けていく必要があるようだ。
※本内容は2015年11月30日現在で進行中の事案を取り扱っています。記載内容の事実に変化が生じた場合は随時、経緯・情報を追加いたします。
日本温泉総合研究所