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プリンシプルなき温泉法が認識の隔たりと混乱を生む −琴平温泉の加水問題から− :  所説・日本温泉総合研究所

 

 
 

香川県の琴平温泉で、温泉を管理する町が源泉不足を補うため2年4カ月にわたり大量に加水をして温泉の供給を続けていたことが明らかになった。掘削直後から所期の湯量が得られなくなっていたという。今回のような事例は、とくに新興温泉地では珍しいことではない。昨年秋にも兵庫県・宝塚温泉の施設で源泉の100倍も水で薄めていた事件が発覚している。温泉のすそ野がひろがるなかで同様の懸念がある温泉地・温泉施設はまだ他にもたくさんあり、琴平温泉もそうした懸念を内包する温泉地の一つだったのである。

掘削技術や探査技術の進歩により、これまで温泉には縁もゆかりもない土地に温泉地や温泉施設が続々と誕生している。「温泉」という看板が集客や地域おこしの起爆剤に欠かせない必須アイテムとなってすでに久しく、こうしたニーズが全国各地での温泉開発を牽引している。

その一方、温泉源の保護や温泉の適正利用を図る上での法制面の不備や欠陥は多数放置され続けている。温泉偽装が社会的にクローズアップされた2004年以降から今日に至るまで、温泉をめぐる根本的な課題は相変わらず放置されたままである。

 

掘削をしたものの、計画通りの湯量が得られないという例は枚挙にいとまがない。新聞報道によると、琴平町では1日130トン(毎分約90リットル)のゆう出を前提に、10カ所の施設に温泉を配湯していたという。男女各2トンくらいの小さな浴槽で循環利用であるのなら維持できなくはないが、配湯の6割は大手2施設が消費していたというから、その程度の湯量で新たに一つの温泉街を形成しようという計画自体に無理があったのではないか。供給開始1カ月後には1日の湯量が30〜40トン程度にとどまり、水道水を加えざるを得なくなったという。通常、掘削した温泉は湯量が安定するまでに時間がかかるが、揚湯試験を含め湯量の見込み計算は適正であったのか疑問が残る。

町は別途泉源を所有する大手2施設への配湯をやめ、残る8施設への供給に絞ることで今後は加水せずに済むという。しかし、1日の平均湯量はわずか30トンである。これをすべて均等に配湯したとしても、1施設当たりの湯量はわずか毎分2.6リットルにしか過ぎない。さらにこれを男女の浴槽に振り分けるのであるから、浴槽を維持できる量にはとうてい及ばない(仮に2トンの小さな浴槽を毎分1.3リットルで満たすには約25時間かかる)。

 結局、供給元である町で加水をしない代わりに、施設側で加水せざるを得なくなるだけのことで、事態は何一つ変ることはない。町は自ら水を添加しない代わりに、その責任を施設側に転嫁したようなものだ。

 

町は個人客の入浴料について個々の損害賠償請求には応じない方針で、施設側も町に対して請求は行わない意向だという。その理由として「水道水を混ぜているとはいえ、温泉としての成分が認められる」ことを挙げているが、このあたりの認識は通常の感覚においてすら理解しがたい。そもそも町では施設側に対して、成分低下を防ぐため加水しないように条例で求めていたのではなかったのか。ここに今日の温泉問題の影を見て取ることができるが、このような温泉に対する認識が利用客無視にもつながっていくのである。こうしたちぐはぐを抱えながら、お客の最前線に立つ施設側はどのような認識で向き合い、温泉を説明していくつもりなのであろうか。

 

今後、湯量不足を補うため新しい泉源を開発するそうだが、解決策となるかどうかは未知数だ。いまさら温泉の看板をおろせないだろうから、加水を続けるしかない。現在の温泉法からすれば、泉源の段階で温泉として認められれば、その後どれだけ加水された温泉水が浴槽を満たしていたとしても「加水」と表示をすれば、とりあえず問題はない(あったとしても「不当表示」程度で、温泉そのものは問われない)。よって今後は「加水」の表示をするという。

けっして「加水」が悪いわけではない。泉質や成分濃度、温度によっては必要な場合もある。しかし利用者にとって困るのは、「温泉が高温なのでやむを得ず1〜2割ほど加水しています」という場合と、「温泉が圧倒的に足りないので大幅に水増ししています」という場合とでは根本的に意味が異なるにもかかわらず、「加水」という二文字を以て「了とする」で片づけられてしまうことだ。

さらに困るのは、温泉の専門家であることを自認する権威ある学者による、「温泉は天水や地下水と混じり合いながら湧き出る。つまり温泉水とは、水増し現象そのものであるのだから、地上で加水することについてとやかく意見するのはおかしい」といった誤解を招きかねない言説の流布である。確かに地球科学的な観点では間違ってはいない。しかしそれは温泉の成因の話であって、あくまでも地下においての話である。温泉分析を経たゆう出後の利用の話ではない。そんなことを言い始めたら、焼酎やウィスキーはどうなるのか。いずれも水が主要な原料の一つであり、加水による度数調整が行われることで製品として出荷されるが、小売店の段階でさらに勝手に水増しして販売することまで容認されているわけではない。スコッチウィスキーには「玉付き」のボトルがあるが、この存在意義を考えればよくわかるはずだ。

 

今回の琴平温泉での事件は、2004年に端を発した温泉問題の再発でもなければ、終わりでもない。日本全国には さまざまな温泉問題が人知れず脈々と続いており、これからも散発的に明らかになるだろう。なぜなら、今回のような事件が起きるたびに新聞やテレビなどで報道され、ある程度人々の意識を喚起して社会問題となり、社会通念上「いかがなものか」と疑問を呈する人が多かったとしても、実際の温泉の利用上においてそれが「許容されるべきこと」なのか、「許容されるべきで はないこと」なのかの法的な判断基準が存在していないので、結果はただの人騒がせで終わってしまうからである。だから、それぞれの立場や観念論で都合よく温泉が拡大解釈され、表示さえすれば「なんでもアリ」という状況が蔓延する。

 「何を重視するかは利用者の選択に任せればいい」という意見もあるが、一般の利用者にしてみれば温泉の専門家でも造詣の深いマニアでもないのだから、温泉についてについて深く考えることはないし、そんな暇もない。ただ「温泉」という2文字に何の疑いもなくホロリとしてしまう人が大半なのである。だからこそ、たとえ利用者が無意識でいても、誰もが安心できる温泉の利用基準が必要なのである。温泉 の利用は時代とともに変化してきている。これまでの温泉のあり方と、開発による温泉の台頭という現実との間に生まれる矛盾を整理し、温泉利用における合理的で、法理に基づいた基準なり指針を打ち出すことが急務である。

これが実現しない限り、温泉法はいつまで経っても欠陥法のままであるし、いかなる問題解決にも無力のままである。2004年の大騒動の時にも同様の指摘が多々ありながら、何の結論も、教訓も得られぬまま、温泉という言葉だけがただ踊り続けている。それが、2010年秋現在の状況である。


(日本温泉総合研究所/統括・森本卓也 2010.10.05)

 

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